スポンサーサイト

--.--.-- --:--|スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

足掛け4年の不動産ワーク

2012.06.22 23:11|不動産取得
夏至の昨日、城南信用金庫のご担当者さんに、住宅ローンの融資依頼書を提出した。
昨年のご担当者はとても親身になってくださったが異動されてしまった。でも今年の方もとても誠実で信頼できる方だ。

東日本大震災後、いちはやく「脱原発」を掲げた城南信用金庫さんに私はメインバンクを移した。
奥沢支店はうちの筋向かい。おつきあいさせていただく金融機関はここしかないと思った。

実は私は、2009年の夏から足掛け4年に渡り、マンション購入を試みている。
メインブログにちょっとだけ書いたことがある→(これです
…でも、実現に至っていない。

これまで経験した沢山の金融機関の審査は、「門前払い」が多く、それはそれでまだわかりやすいのだが、「殆ど嫌がらせに近い扱いを受けた挙げ句否決」(あくまで主観)とか、「足もとを見られコケにされて否決」(あくまで個人的印象)とか、正直ろくなことがなかった。

私は特にこの3年間、経済的にも精神的にも筆舌尽くせぬ苦労をし、更にお金と金融機関と不動産と家系と土地と、果ては東電や国家権力や世界の闇の権力などに至るクリーニング(ホ・オポノポノ)を経て、今年になってようやく、「まともに審査されて丁寧な文書で否決の通知」がいただけるようになった次第だ

そして唯一の例外が昨年の城南信金さんだった。なんと昨年の段階で一応OKと決裁を出してくださり、更に今年の状況も総合的に見てこれから最終審査をしてくださることになっている。
それは単なる弱小個人事業主としての「データ」ではなく、「私個人」を見て評価してくださっている感じが伝わってきた。
とても嬉しかった。

それにしても何故こんなにも審査に長くかかるのかというと、2010年からもちあがっている物件が、設計からスタートするコーポラティブハウスだからなのだ。

当初建設予定地にはまだ古家があり、構造と区画だけ図面上決まっているマンションに「参加」募集があり、参加者は建設組合員となってコミュニティを立ち上げる。更に区画毎に設計者がついて完全に自由設計をしてもらえる。共用部の仕様は共用部委員会を立ちあげて決めていき、竣工後は管理組合をつくり、やはり住人同士で運営してコミュニティとして共生していく(ざっといえば)ものである。

そして普通は、参加できるかどうかは希望区画の抽選とローンの事前審査で決まる。私は第2希望の区画の抽選には当選したが、ホントに弱小自営業者なのでローン事前審査に落ちた。いろいろ算段したが無理だった。
そこで諦めようとしたところ、引き留めてくださったのが、このコーポラティブハウスをコーディネートしている、NPO都市住宅とまちづくり研究会(としまち研)の理事長さんだった。
「2年計画でやれば、あなたなら大丈夫だと思うので参加してください」
私「えっ、ホントですか!?」

普通の不動産会社だったらまずありえない判断だろう。理事長さんの懐の深さに、当時「地獄に仏」という言葉が浮かんだことを覚えている。
2009年に2つの別物件を何ヶ月もスッタモンダした挙げ句、コテンパンに否決され、その後の出来事によって不動産取得を一旦は完全に諦めた私には、「大丈夫」という言葉が嬉しすぎて、すっかり「よしっ!」とやる気モード全開になった。
そしてこんなチャンスはもう二度とないと確信した。

でも、、、今より2歳若く、何よりも「震災前」の世の中だった。。
言ってみれば遠い昔で、2年あれば世の中なんて全く変わってしまうのだ…


そして、実現のあかつきに公開しようと思っていたこの記録だけど、実現しようとしまいと、もう公開しても良いのではないか? と思うようになった。

何かを公開するにはできるだけポジティブなエネルギーを解き放ちたいので、私の企てたストーリーは、
「こんなヘタレな個人事業主でもマンション購入できました!記」である(笑)
「やっぱり駄目でした記」など、書いても仕方がないと思っていたのだけど、結論よりも何よりも、この4年間私がこの件に注ぎ込んだ半端じゃないエネルギー、それが完全に封印されたままになるのは、自分にとっても周囲にとってもむしろ損失な気がするのだ。

本当に沢山のことを学んだ。体験記としての意味はあると感じたので、書き始める次第。
今後、折に触れて少しずつアップしていく予定である。
スポンサーサイト

テーマ:住宅・不動産
ジャンル:ライフ

2009年夏「株分けか、植え替えか?」

2012.07.05 19:07|不動産取得
先月の6/12に木星が牡牛座から双子座に移動した。
私は牡牛座なのだが、「拡大と成長の星」である木星がいた1年間というのは、いわゆる占星学上では「幸運期」にあたるはずだった。
ただ、毎日お世話になっている石井ゆかりさんによれば「幸運」期というより「耕運」期らしい。自分という本質の土壌が耕される…つまりガチガチに固まっていたところを崩され、今迄気づかなかったことは掘り出され、白日に晒されることになる。
特に「土」の星座である私にとっては自分という基盤が、文字通り「上を下への大騒ぎ!」となる期間だった。
現実的にも震災後の大地は揺れ続け、原発4基がここから250kmの福島でメルトダウンして放射能の流出が続く、という未曾有の事態に事態に直面している。

開業以来、目の前のことをただ必死にこなしつづけてここまで来た11年間、そろそろ先の展望もしっかり持たなければと思ってはいた矢先だったが、こんな可能性を今迄、ただの一度も予想したことなどなかった。
そして個人的に、昨年ほど苦悩と迷いが重なった年はなかったと思う。

*****

さてここで足掛け4年の取っ掛かりとなる古い話をさせていただく。
リーマンショック以降の不況がじわじわと影響してきた3年前、2009年の夏も私はかなり悩んでいた。震災後の今思えば小さめの悩みだけど、悩みとはいつだって深刻なのだ。
私は2000年で開業してから、小規模ながら少しずつ右肩上がりを続けていたのだが、この年は減収を覚悟しなければならない見通しとなりつつあった。

と同時に、「スペース」の問題があった。狭い!!のだ。どうやっても。。

うちのクレマチスが初夏に数輪咲いて夏半ばには枯れる(多年草なので実際は生きてる)のは、
「狭いんで、もうこれ以上の仕事は無理です!」
と休眠体制に入るから。一度大きめの鉢に植え替えたけどその時点で8年目で、鉢の中にはもう土が殆どなく、根詰まりしているのだ。それこそが私の状態の反映だということがわかっていた。

「植え替えか、株分けをしてよ!」
つまり
「引っ越しか、職住分離をしてよ!」とハートが叫んでいるのだった。

でもこれ以上大きな鉢なんて、重そうで引く〜>_<;…と思っていた。(自分もクレマチスも)
株分けをすればいいのだと思うけど、クレマチスに関してはおよそガーデニングが苦手なので億劫になるばかり。。自分に関しては職も住も両方探すなんて気が遠くなりそうだし、二つの家賃を払うのが無理(っていうか無駄)に思えてしまうのだった。

…実はその逡巡を続けてもう何年も経っていた。何が正解かは何も見つからなかった。大きな物件への住み替えが一番良いのだが、慣れた奥沢では賃貸も分譲もとんでもない価格なので、移住を考えてもピンとこなくて悶々。。
そんな八方塞がりながらも何かが極まっていた。奇しくも2009年は私にとって数秘9の年、開業以来9年間の総決算のような年で、何か「決着」をつけたいエネルギーが充満していたのだ。

お盆の頃、近所の不動産屋さんで釘付けになった図面が奥沢駅前の広い中古マンションだった。
すご〜く古いけどありえない平米数、生活感のない不思議な間取り。相場より相当安い微妙〜な価格。
その時点で施術台の置き方や導線まで決められるくらい、私のためのものに思えた物件だった。。

「他にもいろいろあるので、見て行かれませんか?」と女性社長さんに声をかけられた。
この時声をかけてもらえなければ、絶対に何も始まらなかった! あの時の気温と湿度の感じまで覚えている。
不動産を購入できるなどという価値を自分に認めていなかったので、怖くてとても自分からは言い出せなかったのだ。。
その場で内見を申し込む。そして、ざっくりローンの試算をしていただき、月々今と同じ程度でスペースほぼ2倍という見込みを得た。

つまり、丸ごと大きなハコに自分を植え替える大作戦である。
減収しているのにそれこそ大バクチだけど、流れを変えるにはそのくらいの覚悟は必要だと思った。
大体私は地味ながらずっとバクチを打ってきた。脱サラ→開業が最大のものだが、家賃が払えるアテがあるわけでもないのに今のところに移った時もバクチだった。
安住を考えずに「少し無理め」を目指すほうが向上できるのは、自営業の基本だと思っている。

2009年8月21日の新月の日に内見、思ったよりずっと綺麗で面白い物件。
多分1990年代前半にリフォームされたまま、セカンドハウスだったそうで生活臭がなく、建具調度は上等だった。頑丈なSRC構造で古いが、私は自分の年と同じ築年数の物件に住んでいたこともあり、古さは全く気にならない。

そのまま申込書を書いた。なんだかまるで自動書記のようだった。
あとで友人に話すと驚き呆れていた。「比較検討しないの!?」
「しない、っていうか比較対象がないの。これが駄目ならオールリセットよ。」

ところが、これがその後足掛け5ヶ月にわたる大迷走プロジェクトのスタートだったのだ。。トホホ。(つづく)

2009年夏「四重苦のオンナ寅さん」

2012.07.05 22:18|不動産取得
私は自分では不動産運がかなり良いほうだと思っていた。
25歳からずっと賃貸に住んでいたが、大体「ここに住みたい」と思えた場所に住めて、大家さんや周囲との関係も常に良好で苦労したことがなかった。だからちょっと高をくくっていたところもあった。
この話も最初に持ち上がったときに、即あゆみ先生にご相談すると、なんと相性95%!
「待った甲斐がありましたね」と言われる物件だった。難しくてもそれなら大丈夫だと思えたし、信じた。
この時点ではペンジュラムなど何をやってもOK!、のゴーサインだった。
この頃ホ・オポノポノを知って早速クリーニングを初め、クリーニングをしながら不動産を入手した人の話を読んで、勇気づけられた。

でも不動産屋さんでローンの申し込み書を何件も書きながら、
「普通のサラリーマンでも10行(銀行の数)くらい断られることもある」という話をされたので、四重苦の私は相当大変なのだと覚悟はした。
四重苦とは、所得ナシ、貯金ナシ、配偶者ナシ、若くナシ!(笑)

実際それはそれは大変なことだった。やはりこんな私が素手で戦える相手ではなかった…。
何十行審査に落ちたかわからない。大抵は門前払い(即日否決)だった。

私はこれまで相当なことを自力でやってきた。誰にもただの一度も無心や借金をしたことがない。
と同時に、何故事業用ローンなどを使わなかったかというと、借金が怖かったからだ。
それはひとえに育った環境によるものだった。両親も祖父母もものすごくお金に苦労をしている。DNAに刷り込まれている借金の恐怖のすごさといったらないのだ!
だから借金しないためにも一生賃貸でいるつもりだったが、それが一転してしまうと、簡単に個人の力や努力の限界を知ることになる。

そして家族・親族間の関係性もこういう時に浮かび上がるものだ。
うすうす感じていたが、サラリーマンばかりの親族間で私がいかに「恐怖の対象」なのかがよくわかった。
今私は両親に仕送りやお小遣いをあげたりなどできないし、弟夫婦に大盤振る舞いもできない。でも迷惑はかけてないつもりだし、むしろ全員病気な家族の治療をしているわけなのだけど、大会社を辞めてこんな仕事をする私には「不動産なんて分不相応」なのだそうだ。
何かあったら金銭的なとばっちりが来ることをトコトン恐れられ、保証人になるとか、共同担保の相談には拒絶反応を示された。
完済せずに死んでも親族に迷惑かけないように、団信生保に入るって言ってるのに!

あゆみ先生には、「それはめぐみさんが自由だからよ」と笑われた。
言ってみれば私は「おんな寅さん」ってわけ。てやんでぃっ!寅さんが家を買うったらそりゃ大変だ。皆戦々恐々だわ(笑) でも私はそんな自分を承認することにした。

借金嫌いの怖がりだったけど、私なりの強みもあった。
私は左脳人間で言葉に反応しやすいけど、同時にお馬鹿なのでよくわからない言葉には無反応。
「借金」はわかるけど、「担保」とか「抵当」はよくわからない。
「借金のカタ」と言われればわかるけど、「担保に入る」と言われてもぴんとこない。
それにお馬鹿だから先の事なんて考えても全然わからないので、ローンの長さもぴんとこない。
だってもともと一生賃貸のつもりだったから、一生ローンも同じことなのだ。
わからないものはどうでもいい気がして、怖くない。これがお馬鹿の強みだ
ついでに言えば育ちの影響で、貧乏には相当強い!

そんな四重苦&寅さん&お馬鹿な私の唯一プラス材料が、「両親健在」だった。
両親は数年前に70歳過ぎてやはり大バクチ引っ越しを敢行、それを強力に勧め援助したのが私。
それが吉と出たので私には感謝しているらしく、共同担保は拒絶されたけど、少なくとも協力的だった。

不動産屋さんのアイディアで、フラット35(住宅金融支援機構)の「親子リレーローン」に申し込む。開業9年、個人年9の年の9月の新月(9/19)だった。
これは父の年金と私の収入合算ができ、100%近いローンが組める長期固定金利の有り難い制度だ。
申し込み人は父だが私が住み、返済も私が100%して、親のお金は一銭も入れない形が可能なのだ。

でも…思えばこれがこのストーリーがおかしくなってきた発端だった。
この時点で、あるノンバンクが両親の住居を共同担保にするならOKという線までいったのだが、それを諦めて親子ローンに切り替えた途端に何か流れが変わった。
つまり、父が絡んだことで私のエネルギーではないものがはたらきはじめたのだ。(つづく)

2009年秋「蛇の生殺し的膠着状態」

2012.07.06 21:23|不動産取得
私と父はほぼ犬猿の仲だった。扶養されたことに勿論感謝はしているけれども、私が25歳で家を出た理由の一つが、父と一緒に居られないからだった。
でも若い頃から借金で散々苦労してきた父が、折角穏やかな年金暮らしを享受していたのに、老齢にして私のために再び書面上で借金しようとしてくれたということで、私は今迄の父の全てを許せると思った。本当に感謝した。

ローン審査には沢山の書類がいるし、親子ローン審査は特に時間がかかる。住民票や印鑑証明にはじまり、戸籍、税務署関係、父の年金証書やこれまでの資料など、膨大な量の書類が必要だった。それも一度に言われればまだいいのだが、何度かにわたって請求される。何か提出して数週間たって、もう決まったかな?と思われるとまた別のものを請求される。それで簡単に1ヶ月くらい経過するのだ。
父が「身ぐるみ剥がすつもりか!」と怒ったくらい、大量の書類を提出させられた。

父ほどではないが私も短気な面があり、注いだエネルギーに対して真っ当なレスポンスやリターンがないと納得できない。自分や父の資料は全て速攻で提出してるのに、事態が全く進展していない感じがするので、どうなっているのかと再三催促してみると、「売り主側の資料が全く提出されない」と不動産屋さんが嘆いていた。

売り主側は某老舗不動産業者だったが、私は「売る気あんのかテメェ!」とキレて200回位叫んだほどノラクラな担当者で、ぺらっとした書類1枚出すのに3週間かかった。それも肝心なところを空白にして、使えないようにして出してくるのだ。
嫌がらせだった。

どういうことかというと、私が一番手なのに、親子ローンにせざるをえず更に値引きを希望するこちらの足もとを見て、「満額即金の客」が来るのを期待して値引き交渉の結論を出さず、ノラリクラリしているのだった。交渉するこちらの不動産屋さんも相当イライラしていたが、逆切れされたら困るのでなだめすかす等、駆け引きに苦労されていた。
更に売り主さんは相続がらみで、借地権の名義変更の手続きがされておらず手間取っているという。その借地権もものすごく複雑で、どうやら私は厄介なヤマに手を出してしまったらしいと気づく。

短気な父は遂にキレて、独断で直接銀行に電話をした。するとやはり「○○さん(私の名字)さん側の資料は全て揃っていて、あとは売り主さん待ちです。」
既に10月半ば過ぎで肌寒くなってきていたが、まだ資料集めの段階で、審査に入ってすらいなかったのだ。

この膠着状態にもう家族全員ヘトヘトだった。いつ契約になるかと思って先の予定も計画も全然立てられなかった上に、うかつに人にも言えない。でも引くに引けない、いわば蛇の生殺し状態。。
…この「膠着状態と遅延」こそが私のこの不動産ワークにおける重要なテーマで、掘り下げる必要があると感じている。
(2012年夏現在まで、ずっと同じようなことになっているのだ。)

もとい2009年秋、資金をプールするため出費を切り詰め、息が詰まりながらも結論が出ない状態に私は疲れ果て、「もう忘れよう…」と思った。
「忘れて待つ」ことに秘密があるようにも思った。だって、得るためのクリーニングではなく、クリーニングのための案件なのだから。
ホ・オポノポノをしていると、こういう状況においても次から次へいろんなチャレンジが浮上する。人生が、これまで未消化だったさまざまな課題を突きつけてきていた。
私の仕事はクライアントさんと響き合っているので、自分のワークをクライアントさんと共同創造できるのだが、深いカルマの返済と過去世で操作された魂を解除するというテーマが沢山浮上し、それも日ごとにどんどん推移していく。
私は不動産、不動産業者、お金、銀行、親、家系、銀行員に育てられた自分、奥沢の土地、今の部屋、物件そのものなど、関係する全てのことをクリーニングしていった。

そして当然両親にもホ・オポノポノを実行してくれるように頼んだのだが…これが全く駄目だった+_+; 本も読んだしやり方も教えたのに、何も理解していない。
毎週実家に出張するたび両親は待ちくたびれてげっそりとし、ネガティブな思考に陥っていった。
「本当に大丈夫なのか?」という疑惑は審査ではなくて私に向けられており、
私が何回ローン返済を滞納したら、自分たちの年金が差し押さえられるかのシミュレーションに怯えていた…(汗)
私は25の時からただの一度も家賃を滞納したことがないのだが…そういう最悪の事態の「想定」は勿論必要だが、例えば交通事故を起こす「前提」で車を運転するのはナンセンスだろう!
私「そういう思考こそクリーニングしてください!心配が全てを引き寄せるんだから!」
と怒ったが、彼らは思考が現実を創りあげることを全く理解していない。
父「でも、お前が病気になって働けなくなったらどうするんだ?」
私「私は病気にならないようにこの仕事をしているし、そのためにこれを買おうとしているのよ!」
父「でも病気にならない保証がどこにあるんだ!?」

…ただ病人の思考だ。堂々巡り。
そして保証!?そんなものが一体この世に存在するのだろうか? この2年後、国家が安全を保証していたはずの原発がとんでもないことになるというのに。自分以外の何を信じるのだ?
借金苦への恐れ、人一倍プライドが高い父が人に軽んじられる恐れと怒り、病気そして私への恐れ(汗)…がこの遅延を現実化していると感じられた。

勿論この状況は全て私の問題なのでクリーニングするしかないのだが、両親ともなので二対一の綱引きに負けそうになる。私が新居での新たなプロジェクトをどんどん拡張しようと夢を拡げる一方で、両親の頭では
「ローンが払えなくなって物件が競売にかかり、娘は路頭に迷い、更に自分たちの年金が差し押さえられて住まいも担保に取られる」妄想が爆走しているのだった。(オィ…;;)

両親のこのネガティブさに私は本当に途方に暮れ、正直、駄目かもしれない…;-;と感じ始めていた。

更に父とはものすごい喧嘩も繰り返した。古いタイプの銀行員で価値観の違う父は全てに指図をしたがるのだが、全面協力には感謝するものの主導権は私が握り、自分の許容ラインをはっきり主張した。
父のコネの金融機関に挨拶にも行ったのだが、私の財務状態ばかりか仕事内容まで批判され、勿論参考にすべき意見もあったが、私も生意気に「ここからは借りたくない」(それ以前に先方が絶対貸したくないだろう)と感じて断った。
だからイザコザも沢山沢っ山!あったのだが、「いてくれるだけで有り難い親の恩」は心から感じたし、犬猿の仲だった関係性が、協力しあうことで若干改善できたのは最大のギフトだった。それは父も同じだったのではないだろうか?

そして私に出来る事はクリーニングとエネルギーワークしかない。共同体に癒しをもたらすあるソーラーエッセンスを作ると翌日事態が急展開する。
ようやく売り主側の不動産会社がまともな書類を出してきた。それもこちらの希望額。やっと書類が揃ったのが10月末!
金融機関にも「ここから先は早いですよ」と言われ、すっかり安心した私と家族だったが。。(つづく)

2009年晩秋「物件変えてください」

2012.07.15 02:02|不動産取得
フラット35の審査は早ければ2日、遅くとも1週間〜最長で2週間と言われていたが、1週間過ぎても連絡がない…
断られるのは即日だけど長引くのは脈アリのサイン、とはよく言われるが、さすがにもうクタクタである。

そんな折、鍼灸学校とオーラソーマ先輩のKさんから、バーバラブレナンヒーリングスクール方式の「ハラヒーリング」の施術モデルになって欲しいと言われ、一も二もなくOKした。
経絡よりもチャクラよりも、エーテル、アストラルレベルよりも、最も根本的なヒーリングがこれ。
つまり東洋の古来の武術家等、腹が整っている人は最も深いレベルで自らを癒しているということで、これが通れば人生変わる、っていうか努力なく自動的に最善の道が開けていくという。
実際Kさんの施術を1度受けただけで、施術のパワーがあがるのがわかったのだが、思わぬヒーリングクライシス状態にも陥り、「あ、もしかしてハラが通らないと物件も来ないかも?(汗)」と気づく。

そしてほどなく11/10火に「否決」の連絡が来た。「理由は言えない」「物件を変えてください」だそうだ。
…そんなことって…!?
本人も物件も問題ナシと言われていて、あとは売り主側だけだということだったのに。。
フラット35は借地権OKなのだが、多分問題は借地権なんだろうな、と感じた。

それにしても私はあの物件に出逢わなければそもそもこんなアクション起こしてなかった。
それが駄目なら「じゃ別のにします」っていうモノじゃないでしょう?絶対!
不動産屋さんには、まだ他の金融機関から出せるし諦めるのは早いと言われる。
でも私はどうしていいかわからなかった。。
全く縁がなければ3ヶ月も引っ張られないだろうが、ここまでやって否決というのは手放せというメッセージ?
いろんなことを脇にのけてきたこの3ヶ月は一体何だったの?!

11/11、金融機関に父が直電で抗議。どこにも瑕疵がみつからないのに何故駄目なのか理由を聞かせろと。
「理由は言えない」と言われたのにキレたらしい(銀行50年勤務&審査部のプロ&ゴリ押し&キレキャラの人だ)
そして翌日の朝、なんと「再審査」の連絡が来る!
この金融機関はノンバンクで担当者は正直シロウトだったから、父の電話にビビったのだと思うが、そんなことで再審査になるものなのか? 相当いい加減だなと感じる。

不動産屋さんは「お父さんすごいですね、これはいい兆候です、このままいきましょう。」と言い、
じゃぁそうするしかないとは思うが、状況は相当混迷し、見えないレベルですごい綱引きが行われている感じ。

私のために喧嘩を打ってくれたと感じて父には一瞬感謝したが、その後父のスタンドプレイが目立ってくる。
人のためというよりあくまで自分が納得できないことに食い下がる人で、相手がシロウトと見るや権威的なスタンスが前面に出る。
それまで父はあくまで書類上のみの存在で、私ー不動産屋さんー金融機関のラインを作ってきたのに、金融機関の担当者への直電は非常に嫌われ、金融機関も不動産屋さんも私に父を何とかしろと言ってくる…>_<;
金融機関の担当者は二枚舌を使っていて問題はあるが、なんだかんだ言ってもこちらは審査される側なのに父の勘違いは甚だしい! そんなことで父とはまた大喧嘩…更に母も父に同調してしまうのでKY圧力2倍以上(泣)
…私は幼少時からこういうことに悩まされてきたのだ。

それにしても、あんなに購入を恐れていたのに否決されてみて両親がこれほど執着するのは、昔自分たちが東京に住みたかったのに家を買えなかった過去の記憶も関係していそうだ。そこもクリーニングする。

実は私には住む土地の区画整理や再開発を促す質がある。都内に限らずこれまで住んだところは殆どそうだったし、今のマンション周囲も戦前からの家が取り壊されて、新築5軒フルリフォーム3軒大規模改修多数あり、周囲は常に工事中だった。
そしてこの物件の底地は戦後の古い歴史を引きずっていた。思うに、私と物件が近づくにつれて底地のヒーリングが起こり始め、「変わりたくない」土地のエネルギーが反発し、それが金融機関の審査部に介入したのではないだろうか?
土地の問題になっていきなり否決されたのは、そういうこと?
あゆみ先生にも「最初からいい土地には住まわせてもらえないかもね」とは言われていた。
…というわけで、超混迷。。結果、また半月以上待たされることになる。

ハラは土地、つまり地球とつながっている。
「結局は全てがハラを通すためだったのかしらん?」とさえ思えてきた。いわばコアのコアの部分だ。
クリーニングの結果ハラを通す使者として天がKさんを派遣したのだと感じた。その後もKさんのハラヒーリングを受けさせていただき、それは素晴らしく宇宙的かつ地球への恩恵でもあった。
私は自分の仕事のためにはハラを精錬することが第一義で、このためだったらマンションの一つや二つ、どうでもいいとさえ思えてきた。それは完全に手放しの境地だった。

一方で私の計算高さというのもあり、「かけたエネルギーに相当する対価」つまり「リターン」がないと納得できない。ここまで力を尽くしてクリーニングもし続けて、何もないってことはないよね??とは思っていた。
ときに11月も終盤に入って木枯らしが吹き、師走の声とともに足掛け5ヶ月仕事になろうとしていた。

2009年冬〜2010年春「万事窮す」

2012.07.15 15:25|不動産取得
あまり古い話ばかりしても仕方がないので、ここからサクサク進もうと思う。

結論としてこの件は11/30月に二度目の否決をされる。
最後まで望みは捨てていなかったのだが、玉砕だった(泣) 理由は「総合的判断」だそう。

そして父には「また直接電話をすると、要注意客として今後ローンを受け付けない可能性あり」旨の通告入り不動産屋さんのメールを転送し、現実を認識してもらう。(っていうか、直接父にそう言えばいいのに二枚舌使うなよ、銀行さん。)

不動産屋さんには、他の金融機関でもう一度やりますか?と言われたが、私はもう無理だと言った。
私も両親も相当疲弊していた。ここまでやって駄目なものは駄目。ここが潮時だ。

師走となり、するつもりのなかった賃貸の更新もしなければならず(大家さんに、ちょっと保留にしてください、と言ったら焦ってひどく慰留された。これも一要因かな…;;)、忙しすぎて年内「一時休戦」とした。

そう、この物件のインパクトは凄かったけど、これが駄目でも私はスペースワークをやめるつもりはなかった。
「物件変えてください」などと言われたし、とりあえず他もいろいろ見てみた。
不動産屋さんは沢山紹介してくださり、見ること自体は楽しかったけど、そこで仕事をしている自分が全く想像できないものばかりだった。
つくづく不動産ってご縁のものだ。「比較対象物件はない」と最初に感じた通りだと思った。

そこでガラッと方針転換して、こんどはワンルームを探すことにした。
「帰る家」を確保し、今のスペースを100%業務用に使う職住分離作戦、つまり最初に無理と思った「株分け」のほうである。
月々の支払いを減らしたかったのに増えることになるが、そのうち業務用をもう少し小さめに変えればいいと思った。

いまの家から徒歩10分強の、古いけど管理の良い大規模マンションの一室のワンルームをチェックしておいた。
ディテイルにいろいろ難はあれど、MBTを履いてウォーキングをしながら部屋を出て、仕事をして帰ってくる自分がイメージできる物件だった。
年が明けたらこの件でいこうかな?と思っていた矢先、、、

2010年1月4日、父が一過性脳梗塞で倒れる。
一過性なのですぐに正常に戻ったが、これはある種の「お知らせ」でもあった。私も父も天中殺に入る1ヶ月前の出来事。(私は立春前に速攻でカタをつけたかった。。)
本人が相当ショックを受け「もう力になれない」と言う。私もショックながら了解した。

「○○さん(私の苗字)はお父様との親子ローン以外に購入する方法はありません」
という不動産屋さんの言葉が耳に残っていた。そして、もう父は借金が本当に嫌なんだな…と理解する。
「万事窮す」、これが一度目。

でも一過性脳梗塞は本当にすぐに回復するので、立春過ぎた頃に父は「大丈夫だ」と言い始めた。
私の治療も毎週受けるようになり、回復はしていたが私には不安があった。(誰にも言わなかったがこういう予感こそ的中するものなのだ。。)

それでも例のワンルームについて不動産屋さんに聞くとまだ売れておらず、話をすると今度は両親ともにかなり乗り気。
あゆみ先生に伺うと「これはめぐみさんにとっては60点だけど、ご家族にとっては85点の物件。ご両親はどうしても都内に家が欲しかったのね。」
やっぱり…私のスペースだが既に家族ワーク化している。気分は複雑だが仕方がないと思った。

規模(借入額)は前回の四分の一となり、精神的負担が前回より激減するので両親が乗り気なのだ。
同じ金融機関に物件差し替えでいけば問題ないだろう。父の負担を最小にするにはそれしかないし、私自身は家賃+ローンで超キツくなるけど改善していけるだろう。これが最後のチャンスだと感じて進めることにした。

ところがこの物件、数ヶ月間申し込みがなかったのに、私の申込と価格交渉で下がった途端に殺到した。
更に今回も私が一番手だったのに、売り主が時間のかかる親子ローンを嫌い「早い順」だと言ってきた。
つまり応募者にローンの速さを競わせるわけだ。
そんなの失礼じゃない?!と思ったが、今回は父も不動産屋さんも「それは仕方ないだろう」と言い、そのまま進めることになってしまった。
嫌なことは嫌だとここできちんと言えなかったのは、私のプライドの低さの問題だ…>_<;

嫌な予感は当たる。物件差し替えで今度の審査は速いという希望的観測を完全に裏切り、この金融機関のチンタラ具合といったらなかった。(嫌がらせもあったかも。)
また1ヶ月もかかり更に違う書類をいくつも請求され、役所で何それ?と言われるようなレアなものまで発行させられる始末。

そして結果、売り主は4日ほど早く銀行ローンの通った二番手さんと契約してしまったのだ!
つまり今度はローンが通ったのに物件がなくなってしまった…+_+;;
今回だけは絶対に失敗したくなかったのに…最初に「一番手で交渉させてください」と言えなかった自分を本当に悔やんだ。
クリーニングを重ねてきたつもりだけど、まだまだ至らないところがあったのだ。2010年3月半ばのことだった。

その後も物件を紹介してもらったが、アクションを起こすに足るものはないまま、3月末の年度替わりを迎える。
これだけ煩わせながらも全く契約できない(つまり一銭も払わない)客である私に、不動産屋さんも相当イライラされたと思うが本当に親身にしていただいた。いいお店だった。感謝している。

私自身は方向性を見失った気分になり、頭を切り替えるために少し不動産から距離を置くことにしてひと月弱、
2010年4月28日、ゴールデンウィーク前日、父が脳溢血で倒れる。

今度は一過性脳梗塞ではない、救急車→救命救急治療室に入り最悪も覚悟しなければならない事態だった。
命は取り留めても半身麻痺、車椅子生活、24時間介護などの最悪の可能性ばかり提示された。
「万事窮す」、二度目、そして今度は本当だった。
ここで父との親子ローンワークは強制終了を迎えたのである。

やはりもう父は嫌だったのだろう。前年の足掛け5ヶ月の物件で疲弊させて本当に申し訳なかったと思うと同時に、結局は今回も借金を背負わせなくて良かったのだ、と私は感じた。
脳卒中は勿論具体的な原因はあるが、「自分が変わるくらいなら死んだ方がまし」というほどの抵抗のサインなのだ。(ルイーズ・ヘイ「ライフヒーリング」より)

その後父は4ヶ月入院する。回復もリハビリも順調で後遺障害も最少だったのは不幸中の幸いだった。
私はこの時点で不動産は完全にギブアップし、看病介護と母のケアに追われてすべては凍結状態となるが…
実は全然これで終わらなかったのである。。(まだまだ続く)


2010年夏「スペースのエネルギー〜ハートと向き合う第三の道」

2012.07.22 02:24|不動産取得
父の入院期間の4ヶ月、母は毎日通院して世話をする。母こそリウマチを40年以上病んでいる後期高齢者。
退院してからも老老&病病介護という日々が始まり、私はそのサポートだ。
それは大変なことではあるが、介護日記ではないので触れない。ただ前記のとおり、父は不幸中の幸いとも言える経過を辿っているのでご安心いただきたい。

さて、私がずっと感じていたのは不動産のエネルギーだ。
家を建てたり買ったりすると、誰かが亡くなる…そんな経験はないだろうか? 私は何故かそういう話をよく聞く。
実際私が14歳の時の家の建て替え時に祖母が入院しており、新しい家の祖母の部屋には戻ってこられなかった。
お金と同じく土地も大きなエネルギーで、それが動くということは非常に大きな変化であり、関係する人々の中で最もエネルギーの弱い人や、老病人は影響を受けやすいのだと思う。
良い悪いではなく、そういうものなのだ。
周囲でも不動産業の方や物件の転売をすることが多い人は、自分の軸をしっかりしていないとエネルギーが揺らぎがちになる様子が見られる。
だから私の前年からの取り組みは、結果として取得失敗ではあるのだが、逆に取得していたら父がどうなっていたか正直わからない。

本来、不動産のほうが人を選ぶのだ。でも財力を持つ人は買えてしまう分エネルギーの変動を人が受けとめることになるのだが、財力のない私の場合、本当にエネルギーの微妙〜な綱引きっていうか、綱渡りをせざるを得ない(汗)
物事はすべてクリーニングのために起こるので、良いとか悪いとか、成功とか失敗というジャッジではない。だから私の行っていたクリーニングが何か効果を及ぼしているとしたら、そういう調整でもあると思う。

実は父が倒れた同日の2010年4月28日、弟の義父はがん宣告を受ける。手術不可能だった。
父と弟の義父はお酒好きで仲が良く、確か前年の暮れに家族同士で会った時に楽しく酔った上に、抱き合って別れを惜しんでいた様子が印象的だったが、まさかそれが本当に最後になるなどと誰が思っただろう。
でもこの時点では身動きさえとれなかった父と違い、一回りお若い弟の義父は抗がん剤にもびくともしないほど体力があり、ずっとお元気に闘病されていたのに、弟夫婦が昨年(2011年)春に入手した新居を訪れた後、みるみるご容態が悪化して秋には帰らぬ人となった。
本当におおらかでお元気な方でまだお若く、近親者には辛い出来事だった。
でも弟夫婦の家はずっとこの方が見守っていらっしゃる感じがあり、弟夫婦と義母、義妹夫婦一家がよく集まり楽しく過ごされている。

さて2010年夏に戻ろう。父の退院の目処がついてきた7月の半ば過ぎ頃、私と母はかなり切羽詰まっていて、
「ちょっとどこかへ行きたいわ…」「息を抜かないと後が続かないかも…」
と話していた。
入院中はまだいいのだ。それよりも半身不随の人を在宅介護するエンドレスの日々が始まる事に怯えていた。
父は既に土日は家に帰るようになっていたのだが、その都度母も私もゲッソリしていた…。

退院日が迫る頃に父に了解をとり、母と7月末に二泊三日で出かけたのが憧れの那須高原の二期倶楽部だった。
さすがに申し訳なく思っていたのか、父は宿泊代を援助してくれた。感謝♪である。
この時、四万二千坪という広大な敷地で時間を過ごしたことが、ハートのスペースに大きな変容をもたらされたように感じられた。なかなか言葉にし難い体験なのだが、本当に素晴らしいギフトだった。(このときの様子を書いたブログはこちら
同じころの日記に、「地球に根ざした仕事をしたい」と書いている。

今回の不動産取得アクションは「狭い!狭い!」と長年思い続けていたことがきっかけだったが、果たして本当にそうなのだろうか?
ふとハートを自然と共振させれば、私のハートは四万二千坪にだって拡張することができるというのに…。
そのハート=スペースマジックに心地よく酔いながら、奥沢に戻って酷暑の日ざしの中改札を出たとき、今迄何度も目にしていたはずなのに気づかなかった駅前の告知が目に飛び込んできた。
「奥澤コーポラティブハウス参加希望者説明会」のチラシである。

私が越してきた当初、奥沢駅前に古家があった。改札からほぼ正面の角地で電気屋さんだったらしい古い看板が残っていたが、全然ケアされておらず正直見苦しい状態だった。
私はその土地が綺麗になりますように…と日々思っていたことを思い出す。前年からのみならず、ホ・オポノポノを知る前から私は無意識に奥沢の土地をクリーニングをしていたことになるのかもしれない。

それが遂に再開発されるのだ!そしてコーポラティブハウス!?つまり新築マンションなわけなのだが、大手不動産会社ではなくNPOが主催しており、改札から10秒というロケーションで最低価格が3000万を切っている。
ドキドキした…!
父との親子ローン以外に購入方法はないと断言されている私、つまりもう取得方法のないはずの私なのだが、何故かドキドキした。
間取り図などはないのでわからなかったが、最低価格の区画は多分狭いだろう、でも実は平米数とかの問題ではないのではないか…?というのが那須でのハートワークの学びだった。

家に帰ってすぐに、マスターカードを引いてみた。
Mother Mary、つまり聖母マリアが、
「奇跡を期待してください」
と告げていた。どうにもドキドキがとまらなかった。。
でもマインドが思いっきり「待った!」をかける。「何を考えてる!?どうせまた門前払いよ!」と。

でもその頃いらしたクライアントさんが、とてもご縁を感じる方だった上に、帰り際の会話で、
「先生、私コーポラティブハウスに住んでいるんですよ」
私「えっ?」
「としまち研さんのコーポラティブハウスで、北区の滝野川です。こちらに来たら奥沢の駅前にも建つようですね。とてもいいですよ〜。病気をしても皆さんに助けていただけてとても安心でした。先生もいかがですか?」
私「私もとても気になってるんですけど、私みたいな自営業者は難しいですし…」
「大丈夫じゃないかしら。としまち研さんってとても親切ですし、自営業者さんでも入居されている方いらっしゃいますよ。」
私「え、ホントですか!?」
「説明会があるみたいだから、出席されたらいかがですか?」

…間違いなくメッセンジャーさんだった。思いっきり背中を押してくださった。
うん、とりあえず説明会に出るだけ出てみよう。全てはそれから。
いったん完全に手放して、ハートとともにいる時間を持ったが故に、第三の道が開き始めている予感があった。(つづく)


2010年夏〜2011年春「応募、そして厳しさを増すロード」

2012.07.26 01:03|不動産取得
説明会は奇妙な感じだった。
私は新築マンションの説明会など出席したことはないが、普通は不動産会社がどんなに素晴らしい設備の素晴らしいマンションかを宣伝しまくるものだと想像はつくのだが、としまち研さんのコーポラティブハウスの場合、何度も何度も強調されるのが、
「住民どうし仲良く共同体の意識を持ち、地域に貢献してください」「周囲と仲良くできる人に限ります」
なのだ。
竣工迄は建築組合を作り、沢山の会議や総会が必要で、更に住み始めてからの管理も自分たちが管理組合を作って決めていくのだが、これまでの例を紹介しながら、それらのプロセスが
「好きな人には楽しいですが、相当面倒臭いですよ〜」
的なことを理事長さんが相当ざっくばらんに、楽しそうに強調される。
単に奥沢駅前に新築マンションが欲しいだけの人は抵抗を感じるだろう。
でも私は不動産所持とは土地への責任を負うことと、コミュニティへの奉仕が当然だと感じているので、共感を持った。

設計の一番の目玉は耐震等級2級。それは大切なことだが、私が一番興味深かったのが、区画だけが決まっている「完全自由設計」だった。
これまでの実績で、同じマンション内でもどれだけ個性の違う住居ができるかを、写真や図面で説明していただいたのが興味深かった。その設計担当者も設計自慢というよりは、
「こんなに変な間取りを作りました例」
などを淡々とプレゼンされていたりして、何だか笑えた。
何より、無理めな低所得庶民であることにそれほどコンプレックスを感じさせない雰囲気だった(笑)

沢山の図面や資料から考えてみた。
一番小さな区画は住居兼サロンは明らかに無理だったが、二番目に小さい区画が気になった。(それ以上の区画は金額的に無理だと私の制限のあるマインドは判断した。)
39平米という広さ、いや狭さと言うか…微妙だ。なにせ今より狭い。普通無理だろう。
大きなハコに植え替えでもないし、株分けでもない。でも簡単に却下できない第三の道を感じた。
ちなみにあゆみ先生によると90点の物件。とてもエネルギーが良い土地だそうだ。
「宇宙はめぐみさんをここに仕事場兼で住まわせてあげたいと思ってるわよ」と言われる。

私は20代の最後に40平米の1LDKに住んだことがあって、当時会社員の私には無駄に広かった。
そして前年にワンルームを探していたとき39平米の物件を見たのだが、寝場所よりも仕事場と感じ、長い廊下などのデッドスペ−スをなくせば住居兼いける?的な、ギリギリの平米数としてインプットされていた。
ちなみに価格は前年に購入失敗のものとほぼ同じ。う〜んホント微妙だ。。

応募と抽選の要領を聞き、とりあえず応募して抽選されたら考えよう、と思った。
思えばこの件については、私の姿勢は全てこれだ。
「多分無理だろうな〜? でも一応アクションだけは起こしておいて、駄目なら諦め、OKならGO。」
そしてアクションの結論が出ないまま2年経って今に至っているわけで…(汗)多分原因はこのマインドの中途半端さなのだ…と、今感じてきた次第だ。。

もとい、抽選では第二希望の区画に当選した。
応募の際にスタッフの方々ともお話したが、とても親身になってくださって、門前払いどころかとても協力的だった。
でもやはりローンの予備審査では落ち、それから私は資金繰りで奔走することになる。
今度は親子ローンではない、完全一人だけだ。何もわからない世界だったが、正直父と一緒はもう懲り懲りだったのでこれで良かった。

まずは業務用物件として捉え、国民金融公庫とか商工会議所とか役所系でプレゼンしたものの、駄目出しされまくった。
区画の図面のみで2年先に建つ物件なんて雲を掴むような話だとか、あなたの事業規模には見合ってないとか。
更にクライアントさんのご紹介の金融機関では住宅ローンとして打診したら、可能性はあるが保証人を求められる。無理だなぁ…。
ちなみにこの資金繰り奔走プロセスにも沢山気づきがあった。(その頃のブログ記事

あぁやっぱり駄目か…まぁ仕方がない、と前年に比べたらかなり納得して諦めにかかろうとしたところ、ここで書いたように理事長さんのお情けを受け、私はこのコーポラティブハウスに「参加」できることになり、2010年10月30日の「建設組合設立総会」を迎えた次第。(この日は仕事があって私は参加できなかったのだが…。)

そして担当の設計者さんをご紹介され、私しか住めない住居兼サロン区画の設計がスタートするのである。
設計者さんは女性で私の意図をよく察してくださり、素晴らしいアイディアを出してくださった。
それは難しいパズルでもあり(同時に一生一度の超贅沢なパズルだ♪)、気づきの過程でもあり、つまり楽しいプロセスだった。言ってみれば完全デザイナーズマンションなのだ。

でも全てはこれからだった。。
それははっきりいって死のロードワーク。前年の蛇の生殺しの数百倍の威力である(汗)
住宅ローン融資が受けられる財務状況を作るために、この年の確定申告から私は自営業者の数少ない特権とも言える経費計上を殆ど諦め、見かけ上の所得を上げて税金を沢山払うことになる。
国税を払って安心していたら、都区民税と国民健康保険の請求額の激増に息が止まりそうになる。
更に経費支出や家賃が減る訳ではないので、青息吐息…(゚ロ゚;)
これを2年は続けなければならないのだ。そして肝心なのはこれを続けてローン審査の土台に載る実績を作ったとしても、審査が通るかどうかは金融機関に委ねられていることだった。
それでもやらなければならないと思った。何をするにしても土台がなければ話にならないし、こんなチャンスはもう一生ないと感じられたからである。

あまりの苦しさに、本当に正しいことをしているのかどうかわからなくなって潰れそうにもなったが、少なくとも2011年春時点までは普通に希望があったし、やめるという選択肢はなかった。
家賃をローンすることで月々の支出を減らし、将来的には運用の可能性も視野に入れていた。

そこへ起こったのが2011年3月11日の東日本大震災である。
私は被災したわけでもないし、震災や原発のことを書き始めたらもう一つブログが必要なほどなので書かないが、文字通りこれまでの土台というか地盤がひっくり返ってしまったのだ。(つづく)

2011年震災以降「混乱と混迷の果てに」

2012.07.26 23:23|不動産取得
ようやく時系列が今現在に近づいてきた…;;

思えば震災から1年と少し、世の中全体はずっと混迷と混乱にあるが、スペースワークがハートワークだとしたら、私はハートの中の瓦礫処理さえ終わっていない感じがする。

不動産購入とは、土地、つまり地球への責任をとることだと私は考えていた。
私は残りの人生を奥沢に根づいて、クリーニングとこの仕事を続けていきたいからアクションを起こしたのである。
でも250キロ先の福島で原発4基がメルトダウンという、人類未踏の最悪事態にあるこの東京奥沢の土地の責任を、一体私はとれるのだろうか?

次々に明らかになっていく隠されていた事実、マスコミや政府の報道などひとつもあてにならないということも学び、本当のことをシェアしている人の情報を自分で掴んでいくしかなかった。
そして、これまで意識のどこかで原発のことを知りながらも、何も手段を講じなかった自分を深く責めた。
(…恐らくだれもがそうだったのではないだろうか?)

実際に首都圏数千万人規模の避難という「最悪シナリオ」はなくなったわけではないだろう。
また次の地震や津波があったら、4号機の使用済み燃料プールが崩壊したら、…いつでも起こりえることだ。

何よりも私は体質的に非常に敏感で、放射線毒素の影響を2011年3月15日の時点ですぐに感じ取ったため、一体この場所にいていいのか、危機感とともに何もわからない恐れと混乱で途方に暮れてしまった。
このままどんどん放射能が大気中に増えていくとしたら西に逃げるしかないが、今診ている患者さんや家族はどうしたらいいのだろう?
私は幸い子どももいないし、自分だけなら今後放射線への抵抗力をつけていけるだろうか?
ともかく浄化のための努力をしていると、少しずつ身体に耐性がついてくる様子はわかってきた。

でも、、私は一体このままこのスペースワークを続けて良いのだろうか?
患者さんでも移住した方は複数いらっしゃり、そのほうがいいと思える方ばかりだった。
小さなお子さんがいらっしゃるあゆみ先生は早いうちに沖縄に移住されてしまい、私にも考え直したほうがいいとおっしゃった。「切り替えが大事よ」と。
確かにそうなのかもしれない。でも………←このエンドレスの点々の延長が今に至っているわけだ(汗)

とことん迷いながらも、昨年中はどうやっても「撤退します」と言えなかった。
理事長さんに「やめます」と言うつもりで、何故か「やめません」と口が言う不思議さも味わっていた。
つまり私はやっぱりこのスペースが欲しいのだ。
この共同体で暮らし、ここで仕事をし、ここで責任をとっていきたいのだ。


そうしたいならそれでいいい、でも本当にそれができるのだろうか?! 
この究極の自己不信があった。(だって人類未曾有の事態なんて、難易度高すぎるじゃないか〜)
キャッシュでさっと買える人とは訳が違う、普通のローンも本来は無理な私がここまできて、更にこんな決断を突きつけられるとは。。

そんな中、奥澤コーポラティブハウスは被災地への資材提供などの関係で若干のスケジュール遅れはあったものの、着々と進行していた。
設計はほぼ最終段階に入り、2010年の段階から水回り関係は何度もショールームに足を運んでおり、更に無垢材の床をすすめられてこちらもショールームで材質を決め、ペーパーホルダーからタオル掛けの品番まで、早いうちに既に決まっていた。あまりに早く決めすぎて廃番になってしまったものさえある。

そして2011年7月2日に地鎮祭を迎える。
地鎮祭、これだけは本当に経験して良かったと思った。
地鎮祭 紅白饅頭

一生のうち、こんなに沢山の人たち(建設会社と施工関係の人たち)に「おめでとうございます!」を言われることは滅多にないだろう(笑)。本当に気持ちよかった。
奥沢神社の神主さんを招いて行われ、本当に神様がいらして、終了と同時に上へ去っていかれた様子がわかり、感動した!
近隣の来賓挨拶あり、全世帯の挨拶スピーチもあって入居前に既に顔なじみ。直会(なおらい)も立派で、素晴らしい式だった。

うん、神様も来てくださったし、このままいこう!という気持ちにもなり7月31日の大契約会に臨んだ。
公民館の会議室にほぼ全世帯が会して重要事項説明を受け、譲渡契約書にサインし捺印。
大勢が一斉に実印を押しまくる光景は、かなり壮観だった。
そして設計のほうも気づいた点を少しずつ盛り込みながら、着々と完成形に近づきつつあった。

でも、、、ひとつだけ全く進展しないのがやはりローンだった(汗)
一つ目の銀行のフラット35審査には否決された。
二つ目は2009年に渡り合った因縁のノンバンクだった。。三度目の正直、、と願っていたのに、ここからの否決連絡には本当にショックを受けた。
(ちなみに否決連絡が来たのは、前々回に書いた弟の義父の葬儀の日だった。だから尚更、父の「俺はまだまだ死なないぞ!」というメッセージに感じて、ショック95パーセントながら、残りの5%でちょっと笑った^^;)

既に2011年の秋が深まりつつあり、収入は震災の影響で下がり気味なのと税金地獄と先行きの不透明さという、あまりの困難さに、私は鬱状態に陥ってしまった(患者さんには殆ど気づかれなかったが、震災後からその傾向だった…)。
その影響は身体にも出始めていたが、コーポラティブハウスの忘年会と上棟式には出席した。
もうすぐ私はこのコミュニティの仲間ではいられなくなるかもしれない…という鬱ゆえの悲観的な感情とともに、その時を味わっていた。
そして今年に入ってから、三つ目の銀行のフラット35審査にも否決された。。

でもただひとつだけ、最初に書いたように城南信用金庫さんだけが、昨年の時点でOKを出してくださっていた。
昨年分の申告データと合わせて最終審査を依頼したのが2012年6月21日、その結果は一ヶ月以上を経た7月26日現時点でまだ出ていない。
先月の時点で私は決心した。
今回城南信金さんが駄目なら、この件撤退しよう、と。
私が本当にお金を借りたい金融機関はここだけだ。これ以上の試行錯誤はしない。
もう部材の発注に入っているし、大工さんとの打ち合わせもある、来月には躯体見学会もある。
ここでやめるなどというのはどれだけ迷惑なことかもわかっているが、その旨をとしまち研さんにも伝えた。

どれだけ欲しいスペースのためであろうとも、宙ぶらりんな状態をこれ以上続けていくストレスの大きさが、自分を大切にする行為と感じられなくなってきたからである。

同時にシータヒーリングのテクニックやエッセンスのワーク、何よりホ・オポノポノのクリーニングを続けていくにつれ、私は創造主の奴隷ではなく共同創造をする者であり、全ての現実を自分が創りあげていること、更に完全に守られていることを実感できるようになってきた。
だから何があっても大丈夫なのである!
そして前回書いた「とりあえずアクションを起こして、あとは天に任せる」という私の今までのスタンスは一見正しく見えるが、実は天と自分が別物だという感覚から来ているとわかった。「ほら神様、どうなの?早く結論出してよ、まだなの!?」的な。。(なんということか…;;)
このブログを書いたがゆえにわかった大きな気づきだ。
あくまでも決めるのは自分。その最も深い決断を、最も深い恐れと不信から避けてきたのではなかったか?
だから足掛け4年も結論の出ない、こんな混迷のワークし続けることになったのだ。
遅すぎたかもしれないが、その気づきが「今」なのである。感謝。(つづく)



2012年夏「矛盾の中で信頼すること、そして最後の課題」

2012.08.01 11:00|不動産取得
2012年6月21日夏至に、「最後」と決めたローン申請書類を城南信金さんに提出し、担当者さんは「どんなに遅くとも7月末までには結論を出します」とおっしゃったので、待った。
7月半ばに担当者さんと外でバッタリお会いした時に(何せご近所なので)、「スミマセン、新たに資料作らなければならないので、もう少し待ってください。」と言われて、覚悟はしていたけど7/31の昨日、さすがに自分から電話してしまった。
信金さんがローンを決裁するには信用保証会社のOKを取る必要があり、これが時間がかかる。
一度差し戻されて、もう一度資料を作り直して再審査に臨むそうで、更に10日はかかるそうである…!
結論は8月半ばとなり、昨年と同じで結局2ヶ月近くかかることになる。。

私が新たに出さなければならない書類や資料はないそうで、それなのに更に時間をかけて一体何が変わるのかよくわからないのだが、ともかく担当者さんの誠意は感じられるので、もうその流れに寄り添うしかない。
何かが顕現するまでにやはり時間という力が必要で、それこそがスペースワークなのだろう。
私は基本短気ですぐにレスポンスがないことが嫌いだし、一番嫌なのが全体像が見えないこと。一体どのような全体構造で、そのどこでどのように滞っているのか、何がそれを妨げているのかを猛烈に知りたい。
でもこのプロジェクトで養った質は、そんなことも一切合切クリーニングしながら「待つ」能力かもしれない。

待つことは信頼することだ。信頼することは手放すことだ。
昨年があんなに苦しかったのは、大地が揺れ放射能が蔓延し先行きが見えない究極の迷いが生じたと同時に、自分への信頼をも失っていたからだ。

結果は手放すことに決めているけれど、それ以前の「結果が出ない」ことのストレスが既に限界を超えている。
「どんなに遅くとも7月末までに」GOか撤退かを決めると、としまち研さんに宣言したのにこうなるのだ…。
その間に設計は、洗面台のタイルに開ける穴のサイズを修正したり、ニッチの巾と高さなど超ディテイルまで着々と進んでいるのだ(汗)
住めるのかどうなのかわからない物件に関して、ここまでエネルギーを使って仕様を決めていることの矛盾、その苦しさをわかってもらえるだろか…!?これはこの件のスタート時からもう2年続いているのだ。
そしてもしも最悪の事態となってこの期に及んで撤退する場合、現場は一体どのようになってしまうのだろう。設計者さんにも施工さんにも申し訳なさすぎて死にそうな気分になるのだが、だからといってこのまま続けたら本当に自分が矛盾のエネルギーに殺される感じがする。
だから、ただクリーニングすることと、手放して信頼するしかないのである。

クリーニングしながらいろいろ鑑みると、この「膠着状態と遅延」について、2009年時点でもそうだったが、よく考えればずっと事態は好転しているではないか。
あの時は不動産業者や金融業者の嫌がらせや見下しを受けた遅延だったが、今回は違う。
思えば父との共同作業をやめてから嫌がらせなど一切受けていないし、としまち研さんや城南信金さんとの出逢いなど、良い出逢いに恵まれたのは間違いなくクリーニングの結果だと感じている。

思うにとしまち研さんは、よく私のような者を許容していると思う。その鷹揚な放置プレイ(に近い;;)が却って心配になるのだが、私ごときにかまっていられないほどお忙しいのだとは思うが、「ま、多分大丈夫でしょう」という感じで放置していらっしゃるのだとしたらすごい信頼度合いで、敬服してしまうm(_ _)m

沢山のクリーニングをしてきたものだ。
何より「マンションを買う自分を承認する私」(そんなのハナから無理だと思い込んでいた)、「○千万のローンが怖くない私」(DNAレベルの借金恐怖があった)になれたのが最大のギフトである。
2009年からたびたびハラヒーリングをしてくださっているKさんに指摘されて気づいた私のビリーフ(思い込み)が、
「肝心なところで世の中は私の邪魔をする」だった。そのせいで散々待たされた挙げ句否決とか、4日遅れで2番手に取られる、などということになる。
私は鍼灸学校の入学金と学費が何故か期日までに着金せずに一度入学取り消しになっているし、ビーマーライトペンを学ぶ時はコース主催者にメールが届かず受講できなくなりそうだったし、仕事に関する重要局面でそういうことがしばしばあった。これもクリーニングし続けて、ともかく今、私はすべてを創造主と共同創造している。はっきりと自覚しているつもりだ。

そしてオーラソーマで言えばゴールドという色を原材料として沢山持っている私は、本質的に矛盾を孕んでいるのだ。YESなのかNOなのかわからない混乱と同時に知恵を持ち、恐れと同時に喜びを持つ。怖がりなくせに博打打ちだ。
また、ケチなくせにこの2年は自ら進んで似非高額納税者(汗)になっていて、それはそれはもう筆舌尽くせぬくらい辛いのだけど、震災のあった年に税金を沢山払うなら本望だ。

そして最近確信するのだけど、私は「楽しいことしかできないし、やってこなかった」のである。
一応誰もが認める大会社に勤めていたけど辞めて10000%以上(100%ではなく10000%だよ)良かったと思っている。さくっとローンが組めてしまう大会社の社員だった時よりも、この天職に就いて少なくとも100倍以上は楽しいからだ。
だとしたらこの件も、自分でハラハラドキドキなゲームを創り出したくてこうなっている可能性が大である…(汗)

そうなると、最初からわかっていたが最後の最後にクリアすべきことがある。もしかしたらスペースワークとしてはこれが最も重要なのかもしれない。
今のスペースのお片づけ=断捨離である。実は私の一番苦手なこと!!
会社員時代の私を知る人は、私のデスク周りのカオス状態に呆れたと思うが、ともかくどうしようもなく片付け下手なのである。多分今の場所でこれが出来ない限り、次が来ない…。
「こんまり」さん流のときめきお片づけも、昨年に洋服だけで止まっており、どんなに掃除をしても基本的に一日で汚部屋を作りだしてしまう、むしろ「散らかし上手」「汚しのプロ」と名乗りたいほどだ(汗)

全体像がわからない!と思う時、えてして自分を見ればすべてがわかるものなのだ。
実は最難関を残していた。逆にあと10日で出来るのだろうか? 文字通り最後のテストだと感じる。。

| 2017.07 |
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
プロフィール

pieria

Author:pieria
光の鍼 治療室Pieria<ピエリア>主宰(世田谷区奥沢)
http://www.pieria-net.com/pieria/Welcome_to_Pieria.html
メインブログはこちら↓
http://blog.goo.ne.jp/pieria

サクッとつぶやき系のサブブログ↓
http://ameblo.jp/pierianspring/

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

ご来訪者

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

ページトップへ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。